人と音楽はどう付き合ってきた?私たちと音楽の関係を考える記事
岡田 正樹/神田外語大学 外国語学部 国際コミュニケーション学科 講師
私たちは日々、さまざまなかたちで音楽と関わっています。聴く、歌う、演奏する、作る、選ぶ、避ける、共有する。その関わり方は、まったくの自由なのでしょうか、それとも何か決まった方法があるものなのでしょうか?
そうした人間と音楽の関係について考えるヒントとなる4つの記事を紹介します。
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岡田 正樹
神田外語大学 外国語学部 国際コミュニケーション学科 講師。大阪市立大学(現・大阪公立大学)大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門はメディア文化研究、ポピュラー音楽研究。特に、ポピュラー音楽における楽譜(タブ譜、リード・シートなど)の機能や、楽器練習とメディア技術の関係の研究などに取り組んでいる。
音楽は普遍的なのか
英語のmusicは通常、不可算名詞とされ、複数形をとりません。しかし明治大学の宮川渉先生は「音楽とは、複数形で呼ぶべきものではないか」と提案しています。このように音楽研究の領域ではあえてmusicsという複数形が用いられることがあります。例えば記事でも名前が挙げられている西洋音楽やジャズ、ガムラン等々は、部分的に共通する要素はあるかもしれませんが、それぞれ別の伝統、別のスキル、別の美的な基準に基づいていると言えるでしょう。
そうしたなか、西洋音楽(いわゆるクラシック)は普遍的な音楽であることを目指してきました。実際、メロディやハーモニー、そして五線譜の仕組みを、音楽にとって当然のものとして捉える感覚は根強くあります。西洋音楽は、五線譜に記され、その楽譜を使って、いつでもどこでも同じ様に演奏される(ことが目指される)という特徴を持っていますが、これも普遍性の獲得に向かおうとした発想のあらわれと言えます。
とはいえ、宮川先生が指摘するように、この普遍性を目指す西洋音楽もまた、「ひとつの文化」です。音を使った表現・コミュニケーションへのアプローチの仕方はもっと多彩です。しかしそうであるとすれば、音に関わる多様な営みをひとまとめに「音楽」と呼ぶこと自体が、普遍性を目指す西洋音楽的な発想と結びついているのかもしれません。
クラシックコンサートはなぜ静かなのか
普遍化を目指したと言われる西洋音楽ですが、しかしその内部でさえ人々と音楽との接し方は変化してきました。現在、クラシックコンサートは集中して静かに鑑賞することが当たり前となっています。コンサートホールで、客席から声を出したり、飲み物を飲んだり、動き回ったりすると「非常識な客」だと思われかねません。
ところが、立命館大学の宮本直美先生の記事では、コンサートが静かに聴かれるようになったのは19世紀以降であることが紹介されています。19世紀といえば、かのモーツァルトがすでにこの世を去った後です。ハイドンも1809年に、ベートーヴェンも1827年に亡くなっています。彼らの時代くらいまで、オペラやコンサートは、基本的に騒々しい環境で、わちゃわちゃと「不真面目」に聴かれていたわけです。
それに対して19世紀以降、教養のある市民層や知識人らの活動によって、集中して音楽の全体像を捉えるべし、という聴き方が広まっていきました。
同じような音楽であっても、その聴かれ方は時代、社会状況と深く関わるということがわかります。モーツァルトたちが、現代のコンサートを目にしたら、きっとその静けさに驚くのではないでしょうか。
この楽器で何ができるか
音楽のあり方は、どんな音が出るのか、どのくらいの音量で、どのくらい音が持続するのかといった楽器の性質とも無縁ではないでしょう。楽器は単なる道具(instrument)ではなく、音楽の発想を形づくる枠組みでもあります。
楽器の制約のなかで、どんな表現が可能なのかを探ってきた人間の営みを考えるヒントになるのが、武蔵野音楽大学楽器ミュージアムを取材した記事です。この記事では、ピアノという楽器一つとっても、時代の変化とともに、演奏場所、形状、音量などが変化してきたことが感じられる展示が紹介されています。また、マイクロフォンが登場する以前のレコーディングで使われていたシュトローヴァイオリンのような楽器は、メディア技術環境に合わせて楽器とその演奏の仕方が変化する可能性があることも示唆しています。
世界中の楽器が集まるこのミュージアムの展示を見ながら、「この楽器を使ってどんな音楽が実践されてきたのか」と考えを巡らせていくのも楽しいはずです。
楽器を通して時間や地域を越えた旅に出る
1990年代に活躍し、音楽マニアとしても知られたミュージシャンが遺したCDコレクション・リストを見たとき、私はこんなことを思いました。「これしか持っていなかったのか」と。もちろん実際には「これしか」なんてことはなく、CDとしては膨大な量です。それでも現在のサブスクや動画サイトに慣れた私は、案外少ないなと感じてしまったのです。
かつての「音楽マニア」と比べてもたくさんの音楽を聴ける環境にいる私たちですが、しかしその膨大な選択肢を前に、どう音楽を選び、聴いているのでしょうか。直接音楽を扱ったものではありませんが、レコメンドシステム(あなたへのおすすめ)のあり方を研究している追手門学院大学・上田真由美先生の記事は、この問いを考える手がかりになります。
膨大な情報にさらされた現代において、プラットフォームが提供するレコメンドシステムは情報を選別してくれる便利なツールとなっています。と同時に、そこには個人情報の問題に加え、「セレンディピティ(偶然の産物)」の喪失という問題も横たわっています。自由に情報を選んでいるように見えて、その実、私たちは「おすすめ」という泡のなかに閉じ込められているのだ、という考え方もあります。
もちろん、未知の音楽なんて別に知りたいわけじゃないからそれでいい、というのもリアルな音楽観でしょう。それでも、ソーシャルメディアとサブスクの時代における「出会いのメカニズム」については、一度立ち止まって考える価値があります。
「音楽を聴くときには、作った人の意図を正確に読みとるべきだ」という考え方があります。しかし、そうした「現代文のテスト」のような聴き方を求められたら、窮屈に感じる人もいるでしょう。意図がそっくりそのまま聴き手に伝わるという発想自体、少しナイーブとも言えます。
音楽との付き合い方はもっと多様で、開かれたものです。同じ曲でさえ、人々はそこに別の意味を与えて、別の使い方をしていきます。
とはいえ、私たちはまったく好き勝手に音楽と付き合っているわけでもなさそうです。文化や慣習、楽器や技術、そしてプラットフォームの仕組みによって、人と音楽の関係は形づくられてきました。
4つの記事が示唆するように、音楽に唯一の正解を求めるのでもなく、何でもありだと開きなおるのでもなく、人間と音楽との付き合い方をつぶさに観察することで見えてくるものもあるはずです。
※「キュレーション記事」は、フクロウナビで紹介されている各記事の内容をもとに書かれています。紹介する記事のなかには、記事が執筆されてから時間が経っているものもありますのでご注意ください